チェコの小さな音楽事情−クロメルジーシュの現代音楽祭を中心にー
                 中嶋恒雄

1.まえがき 本年6月にソプラノの家内とともにチェコのプラハ、ドマジュリツェ、フラデツ・クラーロヴェ、クロメルジーシュの4ケ処を巡って演奏旅行をした。プログラムは私の歌曲作品を中心にして、幾つかの日本歌曲とともに、同行したピアニストの独奏曲もジョイントにし、処に応じて入れ替えながら演奏した。これはチェコの音楽事情のささやかな報告である。
 ご存知のようにヨーロッパの中央にあるチェコは、わが国からは直行の飛行便も無い小さな国である。したがって一部の旅行マニアや識者、商社、生産会社関係者など以外は、ほとんどの日本人が漠然とした知識を持つのみであろう。音楽関係者であれば、それはスメタナ、ドヴォルザークの名前と音楽である。私自身も今回3度目のチェコ訪問をするまで、ドマジュリツェ、フラデツ・クラーロヴェ、クロメルジーシュというような街は、名前さえ聞いた事も無く、まったく知識も持たずにチェコのピアニスト、グロスネロヴァー・ユリア大梶の言うままについて行っただけであった。しかしクロメルジーシュの現代音楽祭に参加し、現地の音楽家や、音楽に触れ、彼らの音楽に対する真摯さ、私の音楽への理解度の高さを知ることによって、彼らのことをもっと良く知り、お互いに交流することは私たちの音楽のあり方のためにも重要だと気がついて、この報告をする次第である。今日、わが国は、韓国や中国との領土問題で急に騒がしくなった。しかしチェコの事情を多少でも知ってくると、日本人はまだまだ、あまりにも呑気す過ぎると思わざるを得ない。チェコの知識人の生きて行くモットーは、「黄金より自由を」というものである。ここには彼らの歴史への無限の想いが込められている。

p 私が1ヶ月滞在したプラハ郊外の家具付きペンションの外観。この建物は14世紀に建てられ、領主の館であった。日本のホテルよりずっと安い値段で借りられる。


 私の無調と有調を行き来する様式の音楽は、音楽の非常に自由なあり方を示すものとして、彼らの耳に評価されたようだ。家内が私の作品の演奏を終えて万雷の拍手の中を控え室に戻ってくると、作曲家や演奏家の大男たちが次々と、まるで王妃さまに敬意を表するかのように、家内の手を取って腰を屈め、キスをしたのには驚かされた。また楽屋の女性たちも次々に家内の身体を肩から抱きしめ、お目出度うを慣れない英語や良く分からないチェコ語で言ってくれた。このようなことは、私たち日本の中で演奏しているだけでは絶対に起こりえないし、慣習的に理解し難いことであるので、チェコ人が音楽をどのようなものとして考えているのか、その背景を探ってみよう。

2.チェコ共和国小史
 チェコは、人口が1000万ちょっと、国土も日本の5分の1ほどの小さな国である。第1次大戦以後チェコとスロヴァキアは統一国家であったが、1993年に分離独立した。地図を見ればすぐに分かるが、すぐ西側にドイツ、南にオーストリア、北東部のポーランド、そしてさらに東にロシアと地続きに国境を接している。ということは、日本の竹島、尖閣諸島、北方領土以上に、紛争と支配と略奪の苦難の歴史を抱えた国だということである。しかしチェコの首都プラハには、京都と同じように第2次世界大戦の戦火を潜って古い建物がそのままに残されている。これがドイツからも、ロシア(ソ連)からも爆撃にさらされなかった事情は、アメリカの爆撃を受けずに済んだ京都以上に複雑である。プラハを観光する多くの人が訪れる第一の場所は、プラハの街を東西に分断して流れるヴルタヴァ川に架けられたカレル橋である。この橋に名前を残したカレルとは、14世紀プラハの発展に尽くした、神聖ローマ皇帝カレル4世である。彼の母がチェコの国を創設した家系であるために、父方はドイツの名門貴族であるにもかかわらず、彼は神聖ローマ皇帝となってからも、チェコ人としての意識を持ち続けたと云われ、チェコ人から「祖国の父」と崇められている。ドイツとチェコの関係は、今日にも尾を引く厄介な問題を抱えている。カレル4世の先祖プシェミスル家の君主たちは、ハンガリーのマジャール人のチェコ(ボヘミア)への侵入を防ぐために、ドイツ王であり神聖ローマ皇帝でもある皇帝の封臣となって、チェコは神聖ローマ帝国の1領域になった。しかしこの事実が、カレルの後に神聖ローマ皇帝の地位を独占したハプスブルク家や、ヒットラーの支配を許す遠因となっている。特にハプスブルクの支配は、17世紀のビーラー・ホラの戦いの結果としてより強められ、チェコのドイツ化が進み、チェコ語やチェコ文化の衰退が始まったのであるが、1784年、ヨーゼフ2世の公用語をドイツ語にするという言語令によって、チェコの文化、言語の衰退は極まったということができる。また、すでに13世紀には収入増を図って、有利な条件でドイツから多数の植民者をチェコに呼び寄せたこと、ビーラー・ホラの戦いの原因の1つであった多数のドイツ人官吏の登用は、チェコ国内にドイツ人が多数住む地域が形成されたことよって、今日のドイツとチェコの緊張関係の大きな原因となっている。第2次大戦の後チェコは共産圏の国になった。これにも大きな事情がある。

p ペンションの窓越しに見られるのどかな風景。

1938年の英仏独伊の4ヶ國首脳会議ではチェコを参加させないままに、ドイツ人の多く住む地域のヒットラードイツへの割譲を決定したこと、またこの決定に異議を唱えたのがソ連だけであり、さらにソ連は、ドイツの占領下にあったチェコを解放したことによって、当然のようにチェコ国民の期待はソ連に向かった。そこで反ナチの為に戦った国民戦線政府、次いで共産党の政治体制が生まれたのである。この戦後最初の国民戦線政府は、250万とも300万とも云われるチェコ内に住むドイツ人をすべて、チェコから追放した。しかし1992年、チェコとドイツはナチスのチェコ支配によるドイツの責任、この結果によるドイツ人追放という集団的罪のチェコの責任を双方が認め合い和解して、チェコはEUに加盟した。しかしこれらドイツ人たちへの個人補償問題が未解決なために、現在でも、ユーロ通貨を公式通貨として使用出来ない原因になっている。さて、さかのぼって米ソの冷戦が始まる1947年に、ソ連は東欧諸国のソ連圏組み入れを意図し始め、チェコの「人間の顔をした社会主義」という独立路線は、ソ連軍のチェコ侵入によって、党首脳部が拉致され、あっけなく挫折させられた。それでも1991年にソビエト連邦の共産体制が解体すると、チェコとスロヴァキアの分離という代償を払いながらも、チェコは、ようやく今日の民主的な体制になったのである。

スメタナ博物館前にあるスメタナ像と共に。前の訪問では、ここで私の作品が演奏された。

3. クロメルジーシュ現代音楽祭2012
 上のように他からの受難が常態とも云えるチェコの人々は、18世紀後半の民族復興運動の時代に活動したバラッキーの「我々が自らの精神と民族の精神を、隣人たちよりも高貴な活動へと高めなければ、我々は諸民族の間で名誉ある地位を得ることができないばかりか、ついには、自らの自然的生存さえも守ることが出来なくなるであろう」(石川達夫『プラハ歴史散策』 講談社2004)という、精神と文化の高揚こそが、小民族の生きる道であるという教えを、一人ひとりが実践しているように思える。クロメルジーシュは、チェコの東南部にある世界遺産の街である。この街は、17世紀の30年戦争の最後にスウェーデン軍によって2年の間占領され、またペストの流行によってほとんど破壊され尽くしていた。しかし、ハプスブルグの領封君主リヒテンシュタイン家からチャールズ2世が司教としてこの街にやって来ると、ただちに街は再建されて、今日の姿になったのである。そして戦後、この豪華な建物と庭園をチェコ政府が接収したために、この音楽祭などの民間の企画が、演奏会場として使用することが可能になった。このクロメルジーシュの現代音楽祭は、正確にはFestival Forfest Czech Republicと題され、精神の方向づけをする現代芸術国際フェスティヴァルと副題がつけられている。このForfestはラテン語のForumとFestumからの造語であり、みんなのフェスティヴァルを意味している。この音楽祭はすでに40年以上も継続されており、今日では、クロメルジーシュの市のみならず、近郊の5都市を横断し、絵画やメディアアートなどの他分野の活動をも巻き込みながら、6月の1ヶ月間開催されている。音楽祭を推進するリーダーは、ヴァークラヴ・ヴァクロヴィッジ、ズザンカ・ヴァクロヴィッジの画家とヴァイオリニストの夫妻である。彼らはあの冷戦下の辛い時代から手づくりでこのフェスティヴァルを立ち上げ、現在は、地方自治体、国の機関、チェコとスロヴァキアの放送局、ユネスコ、ガウデアムス基金などの応援を取りつけて運営している。

p 世界遺産の街クロメルジーシュでの演奏会。写真は私の作品を歌う妻啓子。


私の作品は6月23日に演奏されたが、その日は、後半に私の作品が置かれ、前半は、主催メンバーであるヤン・グロスマンの歌曲とチェコのより若い世代の作曲家の、ヴィオラのための作品が演奏された。私たちの夕5時からの、ロシア皇帝とウィーンの皇帝が会談したという豪華な大広間での演奏会が終わり、続いて夜8時からすぐ側の古い教会で、隣町の立派な腕の弦楽4重奏団がチェコの作曲家の作品を4曲演奏し終わると、すでに時計は夜の10時を廻っていた。ヴァークラヴがそれからお茶に招待したいというので、疲れてはいたが仕方なくついて行くと、何とこれが彼らの自宅で、この時初めて私は、このもの静かに演奏会場の雑用をやったり、カメラマンをしていた彼こそが、まさに主催者であり、画家であることに気がついたのであった。彼はこのフェスティヴァルについて、次のように述べている。「狭い地域での地域的な限界や商業的な利益が創造的な芸術のもつメッセージを覆い尽くそうとする現在の工業化社会において、これを守るただ1つの方法は、国際的な芸術組織である。私は、今日のグローバル社会での芸術の役割を、このフェスティヴァルを通して探求したい」。要するに彼らチェコの芸術家たちは、戦後の長い米ソ冷戦の影響のもとで、国どうしの行き来を禁じられ、芸術的交流の阻害された状況を政治の力ではなく、芸術の力で乗り越えようとしているのである。しかしもちろん彼は、ここで展示される芸術が、決して多くの大衆に呼びかけるものではなく、少数の選ばれた者にのみ呼びかけるものであることを知っている。1ヶ月に渡るフェスティヴァルのプログラムは、チェコ及びスロヴァキアの音楽家によるものが大半であるが、イスラエル、イタリー、クロアチア、スウェーデン、ドイツ、そして私たち日本からも音楽家が参加して作られており、主催者側にとっても、訪問者側にとっても、十分に興味深いものであった。また彼らの演奏水準は非常に高く、他のヨーロッパの水準に比べても決して劣らないものであったと思う。グロスマンは10年以上以前に、私の曲の伴奏者ユリア大梶がアカデミー修了演奏会で弾いた私のピアノ作品を聴いて私の様式に興味を持ち、以後、彼の教える大学で私の作品を楽曲分析の教材にしていると語った。だからあなたは、チェコでは有名なのだとも。私自身、現代の日本において作曲することがどれほどの意味を持つかと、つねに自問自答してきた。けれどもこのような事実に出会うと、もっと広い目で、音楽のあり方を考えなければいけなかったのだと反省させられる。グロスマンや他のチェコ作曲家たちの作風について述べると、しっかりした伝統的な技術の上に、静かな祈りや宗教的な精神性を表現しようとする傾向が聞き取れる。これはさきのバラッキーの教訓を、彼等が身に沁みて意識し、作曲しているからなのだと思う。

p チェコの作曲家ヤン・グロスマン教授とともに。

4.ドマジュリツェの演奏会及び私たちの課題
 ドマジュリツェはプラハの東南に位置する小さな街で、古くからビールで有名なプルゼニ(ピルゼン)を通ってドイツのレーゲンスベルクへ抜ける、街道の街として栄えた。ここでも街のたたずまいは古いままに残されており、今日では多くの観光客が訪れる街として知られている。この街では「夏の文化祭」という催しが毎年行われており、20以上もある企画の中に私たちの演奏会は、「日本の夕べJaponsky Vecer」として、6月17日に組み込まれていた。街のあちらこちらに私たちの演奏会のポスターが貼られてあり、会場は街のコンセルヴァトワールの1室であった。しかしこの会場は、高い天井に立派な天井画の描かれているのは良いとしても、カーテンのない窓から日暮れの遅い夕日が差し込むのと、たった1台しかないというグランドピアノが打ち合わせが悪かったために他の部屋で使われており、アプライトで演奏しなければならなかったことには閉口した。それでも聴衆は十分な期待を持って聞いてくれ、大きな反応を得たことは、私たちにとっても喜びであった。コンセルヴァトワールを辞するとき、主催側で私たちの世話をしてくれた婦人が、「今日は素晴らしい演奏をありがとう。これは私のお返しです」と云って立派に装丁された本をくれた。宿に帰って開けてみると、これは彼女の描いたスケッチ帳で、改めて彼女もまた、画家であったことを知ったのであった。また、遅い夕食に訪れたレストランの主人が、「あなたたちは日本人だろう、今日の演奏会をみんな楽しみにしていたよ」と云われたのにも、びっくりさせられた。

p クロメルジーシュの演奏会場になった、17世紀に建てられた司教の館。


 さて、以上の体験の上での私たちの会へのささやかな提案である。私たちの会にも多くの優れた演奏家、練達の作曲家が所属している。そして多くの演奏会を定期的に主催しているのであるが、聴衆の動員、社会へのアピールという点では必ずしも十分とは云えない。私の日比谷高校時代の同級生で旧大蔵省高官、駐米公使などを勤めた友人がいる。彼は役員を勤めているオペラシティの切符以外はすべて切符を買って、毎晩欠かさずに音楽会に通っている。彼はそれらの情報を毎晩の音楽会で配布される厖大なチラシから得るのである。この友人のようなコンサート通いの音楽好きは、世にはまだまだ沢山いる。私たちの会がさまざまな情報伝達の工夫をしていることは理解しているが、情報を会員だけにではなく、このような音楽好きの目を惹くために、さらなる工夫はできないであろうか。たとえば会の情報を伝える手段として、会に所属する一人ひとりの音楽会員の持つ個人的支持者のリストを、私たちの会でまとめて収集、管理し、共通な情報として会のすべての主催、後援活動を彼らに伝える方法は如何であろうか。さらに、公共自治体、他の団体への働きかけや国際交流も大事な課題であろう。これもたとえば草の根レベルにおいて、韓国や中国、ロシアなどの問題のある国との政治抜きの音楽交流はできないものか。このような音楽が存在できる基本的な課題について、私たちの会の中で十分に議論のできる機会を持つことを心から希望するようになったことが、私のささやかなチェコでの体験の結果である。会員外の本誌の読者も、ぜひ、アドヴァイスを編集部に寄せてくださることをお願いしたいと思う。

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クロメルジーシュの街角に貼られているフェスティヴァルのポスター。 ドマジュリツェでの演奏会場になったコンセルヴァトワールの部屋とその天井画。 私たちの世話をしてくれたヤナ・フルシュコヴァさんが描いた、
ドマジュリツェの街のスケッチ。

(音楽の世界 2012年10月号 日本音楽舞踊会議発行) inserted by FC2 system