フランツ・リストの音楽再考
                        作曲:中嶋 恒雄

 今年はリストの生誕200年に当たるために、多くのコンサートが、彼の作品を取りあげている。しかし、それらのコンサートのプログラムを見るかぎり、ベートーヴェンやショパンなどに比べると、曲目が非常に少なく、限定されている。リストの人生を調べてみると、リスト自身の人生や音楽への想いと、今日の人々のリストへの評価は、かなりのずれがあると思う。そこでリスト自身は、どのような音楽家でありたかったのか、どうして今日の人々とのずれが生まれたのか、文献や楽譜を通して探ってみよう。

1. リストの音楽への想いと評価のずれ
彼の作品の中で、演奏される機会が多く、人々に良く知られている作品は、19曲から成るハンガリー狂詩曲である。リストはハンガリー語を話せなかったが、ハンガリーの地に生まれ、生涯、自分をハンガリー人と考えていた。そこで20代の後半から死の前年に至るまで、マジャールや、ハンガリーの素材をもとにした曲を、何曲も作ったのである。リストは、ハンガリー狂詩曲という名のもとに、ハンガリーの歴史や、ハンガリー人の理想を、幻想的に表現することを意図した。19曲の中では、2番、15番が特に有名である。しかし、管弦楽曲としても知られている2番の素材は、実は他の音楽家が、ハンガリー風に作曲した曲の動機に依っている、という説がある。また15番(ラコーツィー行進曲)は、ハプスブルグの圧政に対するマジャール民族の哀歌として、1830年頃から歌い継がれてきた歌を素材として、作られている。要するにリストは、他の『パガニー二の主題による華麗なる変奏曲』や『ロッシーニの主題による----』などの曲と同じように、狂詩曲の主題の選択に当たっては、彼がハンガリー風と思う音楽的感性にのみ、従ったのである。けれども当時の演奏家の一般的な演目である、与えられた主題の即興的なパラフレーズ以上の曲として、改訂を重ね十分に仕上げたために、バルトークをして、『形式と技法の観点からは完璧なもの』(『バルトーク音楽論集』お茶の水書房1992)と言わしめた、出来映えを示している。もっとも同時にバルトークは、「円熟期の、美辞麗句を捨てた作品が持つ満足感を、与えてくれない」と非難もしているが、これは狂詩曲の作曲の意図からして、ないものねだりというものだろう。
 リストは言う。「天才とは、人間の魂に神の存在を啓示する力です。芸術を己れの利益や名声の手段としてではなく、人間を一つに結びつけ、共感できる力とみなすこと。それが、芸術家に課せられた課題です。ヴィルトゥ−ジティーは手段であって、目的とならないことを望みます。貴族以上に、天才は義務を負っていることを忘れませんように」(福田弥著『リスト』音楽之友社2005)。このような自覚を持っていたリストが、何故、「喝采を要求してやまない」や「民族的な刻印も、内面的な力として作用せずに、色彩的な仮装となっている」(H.メルスマン『西洋音楽史』みすず書房1970)のように、酷評されるのだろう。ここで当時描かれた戯画を、見てみよう。ここではリストの眼差しが、鍵盤を見ずに、遠くに注がれている。そして次のような記述が、付けられる。「リストは彼の天才的な演奏を聴かせながら、友情に満ちた眼差しを聴衆に投げかけ、あちらこちらに微笑みの挨拶を送った。聴衆はみな魅了され、熱狂し、彼が立ち上がると、熱烈な拍手を浴びせた。男たちはブラヴォーと叫び続け、着飾った婦人たちは、花を投げた」(H.W・シュヴァープ『人間と音楽の歴史』音楽之友社1986)。このような熱狂を、コリン・ウイルソンは「現代の偶像的なポピュラー歌手の19世紀版」と(『コリン・ウイルソン音楽を語る』冨山房1970)言うのであるが、こういう聴衆に囲まれていては、難解な音楽構造を持つ作品などが、好まれるはずはない。そこで、ワーグナーは言う。「もしリストが有名人でなかったら、いや、大衆が彼を有名人にしなかったら、大衆の奴隷、そして巨匠になる代わりに、小さな神とも言える存在になっただろう。大衆は、リストに珍しいもの、馬鹿げた手品のようなものを要求し、リストはそれを与えているのだ」(P.H.ラング『西洋文化と音楽下』 音楽之友社1986)。恐らくリストは、音楽のもつ「人間を一つに結びつける力に奉仕する」という強迫観念に近い倫理的な信念のもとに、彼の音楽の聴衆を、広く求め過ぎたのだと思う。その結果は、早くも20代の若さで、「私はなぜここにおり、何をしようというのか。大衆の喝采が私に何をしてくれるのか。空虚で他愛ない祝福について自問している」(福田弥著『リスト』音楽之友社2005)のような自らへの懐疑が生まれ、自他への不適応を、心の奥底に抱いたのである。
 ところでリストの言う《天才》という術語を、ここで検討しておこう。天才という概念は、わが国や、お隣の中国にはない。その理由は天才概念が、15世紀のルネッサンスに始まり、18世紀のヨーロッパで成立した概念だからである。ルネッサンスまでの人間は、聖書が述べるように、神の創造物であった。しかし科学の進歩は、「神が世界を創造したとき、人間に地上の支配を委ねた。そこで地上の神である人間によって、歴史と文明を創造する業が実現されなければならない」(M.エリアーデ『世界宗教史』筑摩書房1991)というように、人間もまた神格を持つと、人々に思わせるようにしたのである。
 リストが自身を、天才とみなしたかどうかは別にして、自身の高い能力を自覚し、人々の熱狂や崇拝の重荷を背負いながら、寛容と、品位と慎みをもって人々への責任を果たし続けたことは、リストがそれを、自分の使命と考えたからこそ出来たのだろう。洪水の被害に遇った祖国ハンガリーに、義捐(えん)演奏会を開いて多額の寄付をし、《団結のために》フリーメーソンの会員となり、貧困にあえぐ多数の人々への道徳的、知的、物質的な改善という社会思想を信奉して、精神病院や、牢獄にまで出かけて行く。30代前半でヴァイマルの宮廷楽長になってからは、多くの弟子を無料で教え、ワーグナー以下多くの後輩作曲家に励ましと援助を与える。そして晩年の17年間は、ブタペスト、ヴァイマル、ローマの3つの都市を行き来して、活動する。これでは、いかにリストが高い能力をもっていようと、体力的にも、音楽活動に支障を来たさないわけには行かなかっただろう。

2. ハンガリー狂詩曲の素材
 ハンガリー狂詩曲には、さらにもうひとつの問題がある。リストが29歳と35歳の時にハンガリーで収集し、書き留めて作曲の素材とした旋律が、実は、ジプシー音楽家の演奏したものであった、ということである。当時、ジプシーの音楽家たちは、貴族や上流階級の人々が集まる場所で、お金のために、彼らの高い能力を披露した。リストが、もし農民たちの音楽を聞く機会を持ったとしても、そこでの農民は、貴族の館に呼び集められ、貴族の命令によって歌わされた者だったはずである。当然のことながら農民たちは、貴族たちの気に入るように、聞き覚えた上流社会の通俗歌を素朴に歌い、彼らの生活に密着した、本来の農民歌を歌うことなどは、決してなかった。このジプシーの音楽と農民たちの歌の比較から、リストは、ハンガリーの固有の民謡は、ジプシーの音楽である、と結論づけたのである。この結論が誤りであったことは、その後のコダーイやバルトークの研究が、明らかにした。バルトークは述べる(『バルトーク音楽論集』お茶の水書房1992)。ハンガリーの民俗音楽には、2種類がある。素人作曲家たちによって作曲され、上流階級に広まった、単純な構造の都会の民俗音楽と、農民生活の中から、自然発生的に生まれ、伝播していった農村の民俗音楽であると。リストが書き留めたジプシーの旋律は、都会の民俗音楽を、ジプシー流に装飾して演奏したものだったのである。しかし、歴史は進歩し、発展すると考える19世紀の合理主義や階級意識、そして当時の学問の水準からは、リストが農村の民俗音楽に価値を見いだすことは、不可能だっただろう。そこでバルトークは、素材が価値あるものでなかっただけに、このハンガリー狂詩曲では、ゆっくりした部分の憂愁と、早い部分での激情の爆発の形式が、対照的な名人芸として展開されて、一般的な大衆の寵愛を、より多く得ることになったとさえ言っているのである。

3. リストの音楽の新しさとその再評価
 このようにハンガリー狂詩曲が、一般的な大衆の寵愛を得た音楽だとするならば、音楽史的に意味のある玄人好みの作品には、何があるのか。ここでもバルトークは、公正な評価を下している。バルトークは完全な新しさを持った作品として、『ファウスト交響曲」などの幾つかを挙げているが、ここでは、だんだんとソナタが書かれなくなって来た時代に、あえてリストが作曲した、ただ一つのピアノ『ソナタ』を取り上げよう。このソナタは、長らく賛否両論に論じられたようであるが、先の『西洋文化と音楽』の著者P.H.ラングは、ベートーヴェンの最後のソナタハ短調に続くものと、位置づけている。それでは今日では名曲とされているものが、何故、作曲された当時は、否定的な意見が多く出されたのであろうか。
 私たちが、音楽を聴いて理解するということは、今日までのさまざまな研究から、次のように考えてよい。例えば、野鳥の観察においては、観察者の経験の差によって、同じ場所でも鳥を発見出来たり、出来なかったりする。これは観察者の大脳に、経験や知識に基づく情報処理のための神経回路が出来ており、これによって予測をしながら、対象を観察するからである。音楽の場合も、同様である。人々はそれぞれの経験や知識に従い、大脳に蓄えられた音楽情報を処理する神経回路を通して、音楽を聴く。音楽は、ある確率的規則に従って音素材から出来事を作り、それらの出来事を配列して音楽的時間を作る。そこで音楽を聴くものは、自分のもつ音楽情報処理回路の確率体系に照らしながら、音楽的な出来事を聴き、次に起きるべき音楽的な出来事の予測をする。ここでもし予測が全く当たらなければ、それは、その音楽をまったく理解出来ないということであり、予測が全部当たるならば、その音楽は興味を惹かず、価値もない。従って、ある時代に流布する音楽というものは、ある時代の多くの聴衆の、平均的な情報処理神経回路の水準にあったもの、予測が当ったりはずれたりしながら、興味を持続できるものということができる。すでに述べたハンガリー狂詩曲は、当時の聴衆の音楽情報処理回路の水準に適合したために、あれほどの人気を勝ち得たのであり、バルトークのように一般人以上の音楽情報処理の神経回路を持つ者に対しては、音楽的な満足を与えないのも、当然なことなのである。
 では『ソナタ』は、具体的にどういう作品なのであろう。当時の古典派、ロマン派音楽を構成する確率的規則の体系は、長短両音階の音度上に作られる3度堆積の3和音が、中心となる主和音から、順次5度下降しながら逸脱しつつ進行し、最後に再び、主和音に復帰するというものである。今日でもこの確率規則の体系は、ポピュラー音楽を始めとして、十分に有効なものである。しかし西洋音楽史は、このいわゆる機能和声法の体系を破壊するように進んだことを、後世の私たちは、よく理解している。  
 『ソナタ』の冒頭は、主調であるロ短調の属和音による主要な動機に達するまでに、ゆっくりした8小節の序奏を置いている。この序奏は、4分音符を主体に下降する2小節の動機が、1回目はハ短調の音階の中で、2回目は動機の中の2音を半音転位させ、増2度音程を2つ含むジプシー音階の中で、2回、繰り返されて作られる。しかしこれらの動機は、ショパンがこの曲より14年以前に作曲した変ロ短調ソナタの冒頭と同じように、属音を主音とする調の属和音、いわゆるドッペル・ドミナントの和音場に所属する。この和音場でのショパンは、序奏の動機をほんの2小節だけ、聴衆の耳を曲に向けさせるために冒頭に置いて、それを直ぐに、主和音の主題に進行する属音に解決させて、調性を確立した。これに対してリストは、14小節目の第3の動機が出現するまで、調性を確立せず、また、調性が確立しても、すぐに和音を半音階的に平行移動させ、調性を明確にするのは、何とようやく、32小節にもなってからなのである。これでは当時の多くの人の耳には、調性があやふやで、音楽の自律的な論理をもたない楽曲として、理解されなかっただろうことも、合点がいく。しかしリストの和声意識は、このソナタの作曲から20年後には、V・ダンディに「調性を抹殺したい」(V・ダンディ『作曲法講義第2下巻き』と述べたところを目指していたのだと思う。またさらに、リストが標題(プログラム)という手段によって、作曲家が聴き手の気ままな詩的解釈から作品を守り、作曲者の意図を明らかにすると表明したことも、誤解を助長したことであろう。ソナタを理解出来ない聴衆たちは、ソナタが何らかの詩的プログラムに従って構成されていて、音楽的論理性をもたないのであるから、作曲者の説明がない以上は、理解出来ないのは曲が悪い、と考えたであろうからである。
 今日の脳科学は、言語が、大脳新皮質における視覚、聴覚、および運動感覚の重なり合う部分に成立すると言う。そこで音楽の聴取能力を補うために、言語的な説明をしようと試みることは、人間の必然の傾向である。しかし、音楽する者は誰でも、音楽は音楽独自のものであって、言語的であろうと、視覚的であろうと、さらにまた運動感覚的であろうとも、それらの説明はすべて、解釈であり、比喩であることを知っている。リストがそれを知らないはずは、絶対にない。恐らくは文学的な類推が、彼の音楽発想を豊かにし、聴衆の聴取の助けにもなるということが、彼の意図であったのに違いない。何故ならば、立派なプログラムをもった交響詩『前奏曲』のような曲でさえも、しっかりとした自律的音楽論理をもって、作られているからである。問題は、当時の多くの聴取者が、ソナタを理解する情報処理の神経回路を持っていなかったこと、リストの発言が誤解を深めたことなのである。
 リストは54歳のときに下級ではあるが正式な僧籍に入り、「生きている愛しき人々を光で照らし、亡くなった愛しき人々を、安らかに眠れるようにする。これが私の音楽が求めるものです」(福田弥著『リスト』音楽之友社2005)という考えのもとに、作曲を続けた。しかし、「グランのパジリカの献堂式のための荘厳ミサ」のパリ初演において、多くの大衆とともに、友人のベルリオーズにまで酷評されたことは、彼の心が、大いに傷つけられることになった。そこで晩年のリストは、作品評価の望みを未来に託し、他人から好まれようとは思わずに、ただ作曲し続けるだけで十分という心境で、仕事を続けたのである。
 リスト生誕200年に当たる今日においても、彼の宗教音楽などは、ほとんど演奏もされず、理解もされない。しかし、クラシック音楽芸術の確率的な論理が、リストが目指したような無調へと進み、遂にはその理論的な発展を終えたと考えられている現在、音楽が何のためにあるか、音楽の社会的役割は何なのかという初心に戻り、もう一度、リストの栄光と諦念の人生及び音楽を、検証してみる必要があるのである。
(「音楽の世界」日本音楽舞踊会議刊 2011・7月号)


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