未来の音楽人へ
              中嶋恒雄

1 はじめに 本題への編集子の意図は、筆者それぞれがどのように音楽をしてきたかを述べることによって、後に続く若者たちへの示唆とすることのようなので、その意図を汲みながら記述を進めよう。サマセット・モームは、彼の人生を総括した著書「要約すると」の結尾に、「人生の美は、各自が自己の性質と本分に従って行動すること以外にはない」と述べた。しかし私は逆に、人生は、各自の性質と本分を発見する旅と結論するところから、記述を始めたいと思う。
 私は個人の人生や人生への考えかたを決定する大きな部分は、彼の育った家庭環境や社会環境、あるいは時代環境が支配すると思う。音楽への道において、1親が音楽家であり、当然のこととして子供をこの道へと進ませた場合、2親が音楽を愛好するあまり、子供をこの道へと進ませた場合、3みずからの意志によってこの道を選んだ場合のそれぞれによって、彼らの人生観や音楽観はかなり異なったものになるであろう。個人の自我は、環境への親和や反撥の中から自ずと形成されるのであるが、この親和や反撥のあり様は、自己本来の性質に従って決定される。言わば私たちの自我は、先天的な自己本来の性質が行動を決定しながら環境に働きかけて行く部分と、後天的な環境が与えるものの中から、自己本来の性質による選択という行動を通して曖昧で不確定な自我を確定して行く部分の双方を、行きつ戻りつしながら死の瞬間まで、成長あるいは変化していくのだ思う。要するにモームの立場も、私の立場も、私たちの存在全体から見れば、表裏一体の一面だということである。それでは、変化あるいは成長のための私たちの究極の目標はどこか。それは古から聖人たちの述べるように、本来の自己に到達することであり、音楽でのあり様を言えば、演奏家ならば好きなように表現しながら、自ずと作曲家が望んだかのように演奏することであり、作曲家ならば、好きなように書きながら自ずと、神あるいは自然の造型物のように聴こえるということであろう。

2  作曲家志望 さて人生の終わりに差し掛かかり自己反省してみると、私の選んだ芸術音楽の創作は、迷いのない一本道というにはほど遠かったように思う。この点において、親が音楽人あるいは音楽に造詣が深く、親の引いてくれた路線上で教育環境にも恵まれ、迷いなく確信をもってすくすくと成長した音楽家を見ると、とても羨やましく思う。しかし私の場合は、音楽を専攻すると決定した時期が高等学校を卒業した後であり、ピアノなどの実技を習得するためには、あまりにも遅すぎた。この遅れの理由は、私が在籍した高等学校の雰囲気にもあった。当時、私の高校は東京大学進学者日本一を誇り、東大以外は大学ではないという空気が漲っていた。そこで落後しないためには、流れに従うしか方法がなかったのである。それでも方針を決めた後、1年半の準備で東京芸術大学作曲科に入学できたのは、幸運であった。しかし芸大入学後も、残念ながら一途に作曲に邁進するという心境にはなれなかった。それというのも、親が青山でピアノの専門店を経営しており、私は長男故に、父の後を継ぐと云う責任を課せられていたからである。卒業作品はアルトソロ、フルート、ハープ、チェレスタ、弦4部の「万葉による挽歌」を書き、嵐野英彦、佐藤真、八村義夫の諸兄とともに、秀評価を得た。しかし私は親の方針に従って、卒業後は日本楽器(現ヤマハ)調律学校に入学した。そこでようやく親の路線を外れ、音楽人としての自立を決心して、調律学校を中退した。そして作曲のためには演奏のことも勉強しなければ、と指揮科に再入学する決心をした。しかし当時の芸大指揮科は3年編入の制度であったために、やむを得ず楽理科に入学することにした。私はその頃、親の庇護をまったく失ったためにアルバイトで芸大楽理科の受験生を教えたが、彼女ら何人かと一緒に入学試験を受けることになり、同窓となった。楽理科在籍中に、作曲科2年次に書いたフルートとピアノの曲が毎日NHK音楽コンクールに入賞した。しかしあまり喜びを感じなかったのは、私の想いと実際の演奏にギャップがあったためだと思う。指揮科には山田和男、渡辺暁雄、金子登の3人の先生がおられ、最高の先生方であった。とくに私の直接の師の山田和男先生は、音楽解釈、バトンテクニックにおいて大好きな音楽家であったが、礼を欠くのは承知の上であえて先生に隠れ、斉藤秀雄氏にも指導を受けて、山田、斉藤の両大家を比較しながら学ぶことができたのは、その後の私の生き方に、大きな示唆を与えて呉れた。指揮科は1人目卒業生山本直純、6人目卒業生若杉弘の後5年間空席であったが、私の3年編入の年に制度が改められて、1年の手塚幸紀、大学院1年の白柳昇ニの諸兄とともに学ぶことになった。指揮科の2年間はすぐに経ち、卒業にあたってもう少し勉強しようと留年を決めていたが、その年の4月から甲府にある山梨大学の理論の教官として赴任することになり、卒業した。楽理科2年時に作曲科の同級生と結婚し、墨田区寺島中学校の非常勤講師や青山学院2部合唱団、早稲田実業高等学校吹奏楽部、防衛庁合唱団、東京大学宗教合唱団の指揮者を勤めて生計を立てながら、大学で勉強した。卒業とともに山梨大学の勤務に併行して、上野学園大学音楽学部管弦楽団、合唱団の指揮者となり、年2回の定期演奏会の指揮をした。ここには日本フィルや読売交響楽団から移籍した優れた演奏家がおられ、バロックや古典の演奏について多くを学ぶことが出来た。また福島和夫、松平頼則などの前衛作曲家が教授陣におられ、親しく交流させて頂くとともに、多くの新しい作品を初演する機会に恵まれた。

3 電子音楽の制作 しかし、私は上のような活動をするうちに、指揮というのは、自分が音を出すのではないのだから、演奏家を介さずもっと直接に音を創造できる電子音楽の方が、作曲のためには望ましいと思うようになった。そこで江崎健次郎氏の主宰する日本音響デザイナー協会に入会し、電子音楽による創作を試みて、協会の実施する音展に出品した。私のこの分野での発明は、風鈴を金槌で叩き、リング変調器と鉄板のリバーブを通して、お寺の梵鐘のような音響を作ることであった。また、ボタンスイッチによって正弦波を発振する装置を友人に作ってもらい、これで協会の作曲家仲間とともに、ライヴの即興演奏に参加した。いまでも印象深く覚えていることは、友人の作曲家水野修孝、および舞踊家たちとともに上野の都美術館での即興演奏に参加したことである。私はその時買ったばかりのストリングシンセサイザーをもって参加したのであるが、本番中に舞踊家の一人が私の楽器を踏んづけて音が1音鳴りっぱなしになり、私はすっかり困って中断しようとしたところ、水野氏が私の楽器に代わり、鳴り続ける1音を含めて立派に音楽を終わらせた。彼の即興による強い音楽造型のあり方に、私は教えられた。また私は、恩師の島岡譲氏のように、音楽を理論的に考えることも好きであった。私の理論的な仕事で実を結んだものは、日本音階の和声法である。旋律法については、小泉文夫、柴田南雄という優れた先達がいる。しかし和声法においては、個々の作曲家の経験に委ねられていて法則がない。私は小、中学校の現場の先生方が、子どものわらべうたに機能和声によるおかしな伴奏をつけているのを聴いて、なんとか日本音階の伴奏理論を確立しなければと、論文を書いた。佐藤慶次郎監修「早坂文雄ー室内のためのピアノ小曲集」(全音楽譜出版社2002)の私の楽曲分析は、この理論に基づいて記述されている。また1979年に小、中学校での新しい器楽合奏編成の試みとして虎ノ門ホールでの音展に発表した「教育用エレクトロニック・ミュージックのための三縁」は、電子音楽、ロック、日本音階和声理論に基づく即興演奏が総合されている。この作品は、教育音楽や楽器商報などさまざまな雑誌で紹介され、多くの音楽教育関係者からの励ましを得た。

4 教員養成大学の実情 山梨大学での仕事は、今はよい思い出のみになったが、私はここで日本の官僚社会においては、音楽文化は決して尊重されていないと感じさせられた。私が赴任した時、山梨大学音楽科の教官定員は全国で一番少ない3名であり、私の先輩たちは高齢にもかかかわらず助(準)教授のままに置かれて、教授会に出席する資格を持たなかった。音楽科は社会科や理科など他の科から、予算、人事などすべての面で差別されていた。そこで私はこれを改善するために、毎週他科の有力教授のお伴をして深夜まで飲み歩き、議論するという苦行を始めた。結果、ようやく20年以上の時を経て定員も7名に増え、大学院も出来て若い力のある後輩や外国人教師を迎えた時には、これで私の大学での責任は果たせたと、安堵を感じた。この日本の官僚社会において音楽文化が尊重されていないという証拠は、たとえば、欧米の有力大学はすべて音楽科、もしくは音楽学部を持っているのに、日本の旧国立帝大には音楽科のないこと、芸術院会員の数が美術や文芸に比して少ないこと、東京芸大教員定員の少ないこと等々に見られる。この原因は、人間の教養は「詩に起こり、礼に立ち、楽に成る」という孔子の伝統にならって詩歌管弦を尊重した奈良朝以来の日本文化のあり方が、江戸幕府の体制維持のためには、京都の公家階級と武家を交流させないという方針によって、音楽を芝居小屋と遊郭に閉じ込めた政策に起因すると私は考えている。武家の教養は、学問と武術の鍛錬だけで十分と言うのである。そしてこの江戸幕府の方針は、下級武士によって立てられた明治政府の教育政策にも反映して、ハーバード大学音楽科はあるにもかかわらず、東京大学音楽科はいまだに存在しないのである。また私は、1970年代から日本の小、中、高等学校の教育方針を決める音楽学習指導要領作成、音楽教科書検定などの委員、さらには音楽大学の院設置のためのカリキュラムや教員資格の審査委員長を勤めたことによって、國の行政や、教育方針がどのように決められるかを学んだ。そしてこれらの経験に基づいて私は、機会を得、さまざまな音楽団体の協力も得て、先輩同志とともに国会に働きかけ、10年の歳月を経て平成6年制定の法律第107号、「音楽文化の振興のための学習環境整備等に関する法律」の成立に努力した。このために何度も何度も、国会へ陳情に出かけた。この過程で文教委員嶋崎譲氏と知り合い、後には親しく交際し、一緒に仕事をすることにもなった。彼の尽力で、国会でこの法律が可決された瞬間の喜びは忘れられないが、これとともに、ある女性文部大臣が「あんた、こんな法律が何の役に立つの」と私に述べて満場一致となった採決の場を欠席されたことは、この國の音楽への軽視の現れとして、決して忘れる去ることができない。しかしこのような法律があることを、本誌の読者もほとんどご存知ないと思う。しかし10月1日が「国際音楽の日」と定められて、文化庁や民間音楽団体が記念公演をしたり、記念切手が発行されたことによって、知っている方もおられるかも知れない。この法律の眼目は、音楽を盛んにするためには、まず音楽を学ぶ環境を整備しなければならない、ということである。しかしこの法律は、当時の大蔵省の反対によって予算を伴わず、理念のみを謳ったものであるために、これに続く7年後に「文化芸術振興基本法」が制定された。そしてこの法に基づく基金の助成によって、わが國のオーケストラやオペラ団体が運営されるようになったために、さきの音楽振興法は、幾分影が薄くなった感がある。しかし音楽教育環境の整備と言う面の法的根拠として、これは将来に向けて重要な役割をもっている。

5 財団法人音楽文化創造 この平成6年の音楽振興法を推進するために、平成8年に新しく財団が創立されて私は理事となり、運営に10年間関わることになった。その仕事始めは、運営委員長を務めて浜松のアクトシティを借り切り、第1回の国際音楽の日記念公演の9日間に及ぶ13の公演のうちの5つの公演、ジャズ、ピアノ、電子オルガン、教育フォーラム、世界の各地から提言者を招聘してのシンポジウムの企画を、実施をすることであった。この国際音楽の日公演の第1日「ジャズ・フェスティバル」のコンサートにおいて、大ホールの2000人以上の客席が埋まるだろうかという心配に脅かされた前夜のホテルの眠れぬ夜の緊張は、ホールの周囲を3重に取り巻いた大勢の聴衆を見て安堵した当日の気持ちとともに、生涯忘れられない記憶となっている。また財団の機関誌編集長も8年勤めたが、この仕事の大変さを身に沁みて知ることが出来たために、本誌編集の苦労はよく分かる。
 ところで私たちの幸福という概念は、人によってさまざまに規定されるだろうが、少なくとも自分が行動したいように行動し、それがそのまま社会や他の人々に受容され、彼の生活、あるいは人生が成立するならば、それを幸福と呼んでもよい。作曲の場合、自分の書きたい物を書いて作曲だけで生活することの出来た幸福な作曲家は、プッチーニが最後であったと思う。いつであったか戸田邦雄さんが、「現在の作曲家は、漢文の教師のようなものだ」と語ったが、漢文の教師は、学校の教室の中でのみ成立する文化の担い手ということであろう。多少は広がりを持つとしても作曲家も同様な状況と感じるが、今日の作曲家にとって学校以外に生活を成り立たせる場所はないし、その道も非常に狭き門になっている。一昔前までは、いわゆる劇伴という放送や映画の仕事をする作曲家も多かったが、これも今日では、ポピュラー音楽の作曲家に仕事を奪われた。そこで私は考えるのであるが、芸術音楽の作曲のようなマイナーな文化においては、他に仕事を持ちながら作曲活動をするのがよいし、それを異とする必要はないということである。詩作や俳句で生活出来る人が何人いることであろう。以前なら大学の文学部に進学する学生は、みんな小説家や文筆家を夢見たであろうが、今日そのように夢見る学生は極めて少ない。音楽も同様である。作曲家として大学で音楽理論や実技を学ぶにしても、職業音楽家になる必要はまったくないし、音楽を職業とするには、あまりにも需要がない。先の戸田さんなどは、外務省勤務の外交官であった。そうい言えば「赤と黒」を書いた小説家スタンダールも、外交官だった。そこでさきの定義に従えば作曲家は永遠に幸福ではないということになるが、作曲で生計を立てないと決めれば、その活動は非常に自由である。以前から作曲家は、誰のために書くのかという課題をつねに背負っていた。しかし聴衆から実費以下の金しかもらわないと決めれば、作曲家は自分のためにだけ書けばよい。ここでは純粋に、何を書くかだけが課題となる。ここで作曲を新しい響きの創造にのみ内容を限定するならば、その成功の可能性は非常に低いことを、1970年代までのさまざまな実験は示唆していると思う。そこで私は、創造とは、無から有を生み出すことではなくて、既知のものと既知のものとの新しい組み合わせである、とする創造工学の定義を作曲にも適用したい。そして作曲は、まず自分自身を深め、新たにするためのものであり、他人がそれを評価し、喜びを共有してくれるならば、それは文字どうり望外の喜びと考える次第である。 
                                                                               「音楽の世界10月号」掲載

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写真1 1969年上野学園大学定期演奏会における松平頼則作曲「嘉辰」の初演 於 東京文化会館大ホール
写真2 1979年第13回音展でのシンセサイザーオーケストラの指揮 於 虎ノ門ホール
写真3 1996年発行の国際音楽の日記念切手

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