音楽作品の価値

                      中嶋恒雄

 先頃の佐村河内事件は、その表層的な経緯の下に潜む深層としての音楽の価値について、改めて反省する契機を与えてくれた。
 18歳のモーツァルトが父へ送った手紙の言葉「パパもご存知のように、ぼくはどんな種類、どんな様式の作曲でも、巧く取り入れたり、真似することができます」は、その平易な用語とは裏腹の、理解し難さを持っている。と言うのも一般に「真似する」ことは、易しいと考えられているからである。しかしロボット工学は、ロボットに真似させることは創造よりも難しいという。ここでは真似を全く同じことと考えるためである。通常、教師が生徒に範奏して「同じように弾いてごらん」と指導するとき、ここでの「同じ」はリズムや音程、或いはフレージングのニュアンスや指の運動の仕方などの概略を意味するのであって、「全く同じ」のように厳密なものではない。もし「全く同じ」をロボット工学のような厳密さで捉えるならば、教師自身にとっても2度同じ演奏をすることは不可能である。要するに「同じ」という私たちの認識は、事物から共通する構造を抽出して比較し、相互に関連づけながら異同を認知する主観的な脳の働きによっている。この脳の働きを同定というが、たとえば日常の私たちの会話において、言い間違いや文脈の飛躍にもかかわらず、コミュニケーションが可能であるのは、実際の会話以前に脳にある言語規則の体系に照らしながら同定する働きがあるからである。このことは私たちが個別のものの認知以前に、同定の能力によって抽象概念を把握しているという結論を導く。幼児が言語を習得する過程をみると、初めは一語発話の段階であるが、この単語は広い範囲の対象を意味し、過度の一般化がなされている。「パパ」という語は、自分の父だけではなく、男の大人すべてを含んでいる。そして50語ほどの単語を覚える時期がくるが、ここでは未だ、2つの単語を結びつけることは出来ない。次に「オカチ タべリュ」のように2語を結びつけることが出来るようになると、広い概念がより狭い概念へと分化し始め、「パパ」と「ジイジ」が区別されるようになる。さらに3語以上連結して発話出来るようになると、広い概念はさらに分化するとともに、逆に狭い概念どうしを結びつけながら、新しい概念を同定の働きによって生み出していく。このような同定ー分化ー新しい同定ー分化という人間の言語発達の過程は、音楽作品の模倣においても、新しい創作においても同じように働いていると前提するならば、模倣と創作の差は紙一重であり、作品の価値は既成の作品と既成の作品の分化同定の中から、新しい組み合わせを生み出すこととなる。そしてこれが、いわゆる模倣は創造の母と言われる所以であろう。
 周知のようにモーツァルトの価値は、これら彼が真似できるどのような様式をも乗り越えて、一息の短かい主題が終わるかと思うと次々に展開し、批評家たちが「走る悲しみ」と呼んだところへ私たちを連れ去る独特の様式を生み出したところにある。音楽の歴史は、その作品を私たちが聴けば直ちに、「ああ、モーツァルトだね、シューベルトだね」と区別できるような、それぞれの作曲家に特有の様式を生んだ者たちの歴史である。ところで私たちの目や耳は、既に脳の中に蓄えられた情報をもとにして、同定し、対象を構成しながら認知、認識するのであって、ただ聴けば理解するというものでは決してない。従ってあるアメリカの音楽学者が初めて雅楽を聴いたとき、「つんざくような木管の切れ目のない音、サイレンのような不協和音、聴いたこともないような奇妙なサウンド」という印象を持ったとしてもやむを得ない。私たちの社会には、音楽の発生以来蓄積された音楽があり、それらの受容の範囲によってそれぞれの社会の音楽水準が決定される。この中で価値は、1.そのものとは何か別のものに交換できること、2.そのものと同じ体系に属する他のものに比較できること、の2つの条件を満たさなければならない。佐村河内と代筆作曲家の共同作品が現在の日本の音楽水準に合致し、多くの交換価値を持ったことには感心している。しかし2つ目の価値基準、同じ体系に属する他のもの、例えばモーツァルトや彼らが模倣したマーラーとの比較において、特有の様式を生んだといえるかと言えば、それは言えない。従って彼らの作品は時代の波間に消え去る運命にあり、問題は日本の現在の音楽水準、状況にあって、事件の論点はこれ以外には存在しない。むしろここからの反省は、私たち作曲家が音楽の発生以来蓄積された音楽を知り尽くして、仲間うちだけの楽しみや慰めに落ちいって、一般社会からは遊離、孤立していることだ。芸術は本来、日常の生活と結びついたところに生まれた。音楽の場合、社会の行事や演劇や宴席での楽しみが主な創造の場所であったろう。しかし音楽が自立し音楽家の個人意識の主張の道具となるにつれて、社会から見捨てられていった。今日、音楽の社会的な新しい用はどのように作られるだろうか。たとえば携帯電話の着信音において俳句のような短い音楽が、個人の美意識を競い合うという状況はないであろうか。ルネッサンスの画家たちが多くの室内装飾的な注文をこなしながら、新しい様式と美を生み出したように、作曲には今日の習慣化し退屈な演奏会形式以外に、そのような実用状況はないと諦めることが正しいのか、自問自答している。  (「音楽の世界」2014年7月号)

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