サンディエゴ日記

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中嶋恒雄

●教育音楽中高版(音楽之友社)昭和60.7--61.6月号より転載改訂

 私は、昭和58(1983)年度文部省在外研究員として、昭和59年3月21日より昭和60年1月20日まで、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校にヴィジティング・スカラーの資格において8ヶ月在籍し、その後、ウィーン、ローマ、パリに短期間滞在した。本稿は、その期間における私的な記録の抜粋である。

サンディエゴの美しい海岸

ミッションベイ

カリフォルニア大学

サンディエゴ校図書館、ここには武満徹のオーケストラ自筆譜などがある

湯浅譲二氏の研究室にて

左から湯浅譲二、佐藤聡明、

柿沼敏江、中嶋の各氏

1984年3月21日

■サンディエゴに到着

 まったく忙しい一週間であった。六十一年度”山梨かいじ国体”のための行進曲の編曲の仕上げや、作曲家協議会編、友社刊行の子供のピアノ曲の作曲ならびに清書、あいだを縫っての、荷物の整理や、みあげの買い物、銀行でのドルの送金、などなど。午後五時四十分成田発の日航機六十二便の座席に腰を落ちつけて、やっとこれで米国に行くことができると長年来の願望がかなえられつつある喜びを、しみじみを味わったのであった。

 機上では私の斜め前の座席を占める、知的な顔立ちの頭髪の薄くなったやせぎすの白人が、一晩中熱心に読書をしたり、メモを取ったりしている様子をときどき見やりながら、ヘッドホーンを装着して、ジャズ、ソウル、ロック、演歌、クラシックを聴き比べた。うたというものには、人生にたいする真面目さがにじみ出ていることが重要なこと、旋律とビート拍がもっとも合致している様式は、ソウルであること、サイモンとガーファンクルのハーモニ−のよさなどを再確認しながら、リスニングを楽しんだ。

 ロスアンジェルスの空港では、荷物のトラブルに脅かされた。いつまで待っても、私のトランクがターンテーブルに出てこないのだ。周囲にはすでに日本人の旅客は誰もおらず、黒人や、さまざまな東洋人や、メキシコ系や白人たちのみの中を、二時間近くも待ったであろうか。

慣れない英語を使い、不親切な案内係の黒人の女の子に事情をただして、ようやく荷物がバッゲージクレイムを通さずに、すでにサンディエゴ行のローカル便に積み込まれている消息を知り、胸をなでおろす。

 サンディエゴ空港では、雪の東京とは異なり、真青な空。さんさんと降りそそぐ太陽の下を、サンフランシスコ在住の知人より紹介された、サンディエゴ西本願寺教会牧師タダ氏に迎えられ、彼の運転するシボレーにて、空港より十三キロほど北に位置する、海沿いの美しい町ラ・ホーヤの宿に落ちつく。さっそく、かれのダウンタウンの私宅の夕食によばれ、彼が、クラシック音楽の愛好家であることを知り、彼の音楽への愛情と、私の仏教への愛情とを交換し合う。疲労し果てたけれども、まずまずの一日目であった。

3月22日

■カリフォルニア大学見学

 今日は午後から、当地カリフォルニア大の博士課程大学院に留学している、作曲家の藤枝守、評論家の柿沼敏江夫妻の案内で、国際学生センターの事務所で、ヴィジティング・スカラーの登録をし、音楽科の事務室で、いろいろな書類をもらい、大学内のさまざまな箇所を見学した。カリフォルニア大サンディエゴ校は、九つあるカリフォルニア第の分校の一つで、一九五〇年代の終わりに海洋学の大学院大学から出発して、今日では、四つのカレッジと二十二の修士、博士課程を持つ学科、九〇〇人以上の医学生、インターンをかかえる付属病院をもつ巨大な総合大学である。敷地は東西二キロ、、南北二キロ以上の広大なスペースで、全部の様子が分かるようになるまでには、多くの時間が必要だろう。音楽科の事務室で日本びいきの作曲教授ロジャー・レイノルズ氏に会いあいさつをしたところ「いつまで滞在するか」とたずねられたので十二月までと答えると「長いですね」とウインクし ながら日本語でいわれたのにはびっくりした。

 さて、ここの音楽科は、二十二人の専任教官と、多く非常勤講師を持ち、国際的に名の通った作曲家が4人もいる。わが日本の作曲家湯浅譲二氏は、ここの終身教授の地位に三年前から迎えられ、私もこの縁にてここに遊ぶことになった次第だが、外国人を教授として迎えるような、米国の大学のもつ寛大さには、本当に圧倒されてしまう。わが東大や芸大が、外国人を専任教官として任用することなど、殆どありえないことなのに、、、、、。柿沼さんにチータムという黒人の老講師を紹介され、彼のクラスに出席することを依頼する。ここでの私の研究は、現代音楽、黒人音楽が主な対象になるであろうからである。

3月25日

■米国在住の日系人

 家具つきアパートが見つかったものの、四月四日以降しか空かないとのことで、やむなくサンフランシスコの知人二世アサノ宅に世話になっている。今夕はアサノ夫人の働いている日系新聞社の副社長ウメヅ氏宅の夕食によばれ、第二次大戦中に米国在住の日系人が、米国市民権をもっているのにもかかわらず、白人社会の憎悪のために強制収容所に入れられたいきさつを、生々しい体験としてきく。多数派の中の少数派が、民主主義社会の中でいかに圧迫されるものか、日本の中の韓国人の存在を考えれば、我々自身もコミットしがちな問題であることが、すぐに理解されるのである。それとウメズ氏の娘の3世や孫の4世の問題である。彼らは日本人の皮膚にもかかわらず、日本語をまったく理解しないのはともかく、日本への理解も少ない。 しかし彼女は、日本人の血と米国社会のはざまで、日本を理解しようと悩んでいる。私たちはこういう課題に、今後どのように対処すべきであろうか----.

3月30日

■指揮者とオーケストラ

 午後四時にラ・ホーヤの宿をタダ氏の車で出発し、ロスのシビックセンターに、ジュリーニ指揮のロスアンジェルス・フィルを聴きにいく。ジュリーニは今日の指揮者の中で、フレーズにロマン的な起伏をつけてうたわせることの出来る、ただ一人の指揮者だろう。たとえば彼のレスピーギをオーマンデイのそれと比較してみるとよい。どんな強奏のときにも、ジュリーニのフレーズは豊かに息ずいているのに、オ−マンデイの強奏には、メカニカルな正確さだけしかない。

 しかし今夜の演奏にはがっかりした。ジュリーニにもロスフィルにも。というのは、ジュリーニには、自分の意思を楽団に的確に伝えることのできるバトン・テクニックのもち合わせがないことが分かったし、それ故に指揮者を馬鹿にして、バトンの裏に潜む心を汲み取りジュリーニを補って演奏しようとしないロス・フィルの職人根性にも腹がたったから。これで、もう2週間すると、たった1期の常任でジュリーニがロスを引退する理由が分かった。ジュリーニにはヨーロッパのオケの方が相性がよいだろうし、ロスには、メータや小沢やオ−マンデイのような機能的な指揮者の方が相性がよいはずだ。マーラーの甘美な旋律の中で、2時間半のドライブの疲れからまどろんでしまい、目が覚めたときは、お座なりな拍手の中をジュリーニが弱々しく愛想をふりまいていた。 

4月03日

■湯浅譲二氏の個人レッスン

 今週から大学の春期授業が始められ、十時半から、湯浅氏の博士課程在学生の個人レッスンを参観させてもらう。内容は、氏のオーケストラ作品『芭蕉による情景』を視覚的なグラフへと、楽譜から精密に置換し、分析的に理解させるものであった。音程、リズム、音色や、テクスチャーなど音楽を構造ずけるすべての要因を。これは予期できる方法ではあったけれども、ここまで徹底してなされることに私は驚いた。こうすれば、すべての現代音楽の手法は手に入れられるではないか。ここの学生の誰でもが、レイノルズや、クセナキスや、湯浅の響きを作れるとしたらーー。そこで私は氏にたずねた。作曲家であることと、学生であることの相違は如何と。言下に氏は、『オリジナリテイ』と答えられた。そう、オリジナリティ。しかし、このオリジナリティの追求は、意図的なものでは決してなく、99%の汗の中から計らずして生まれるのではないか。また、このオリギナリティは恐らく千人に一人、万人に一人のみが、孤独な道を歩みながら時間とともに普遍化されていくのだと思う。教育の仕事は、この普遍化されたオリジナリテイを、分析し、明確に意識化させること。意識化された誰々のオリジナリテイから新しい何かを生み出すことは、生徒個々の問題であって、理解と励ましのみが教育者の仕事であろう。湯浅氏の方法は、氏の獲得したオリジナリテイを視覚化して生徒に分かりやすく意識させる点においてもっとも教育的であり、この大学の生徒の中からは、必ずや次の世代を担う作曲家が生まれるであろうと確信させられるような内容のあるレッスンであった。

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