サンディエゴ日記

中嶋恒雄

●教育音楽中高版(音楽之友社)昭和60.7--61.6月号より転載改訂

 私は、昭和58(1983)年度文部省在外研究員として、昭和59年3月21日より昭和60年1月20日まで、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校にヴィジティング・スカラーの資格において8ヶ月在籍し、その後、ウィーン、ローマ、パリに短期間滞在した。本稿は、その期間における私的な記録の抜粋である。

リンカーン・センターの全景

リンカーン・センターの中庭にたたずむビリー・テイラー氏。後ろの建物は音楽図書館。

今日に生きる音楽への問い

5月31日

■ニューヨーク到着

 昨朝は早起きしてバスを乗り継ぎ、アメリカン航空126便にて、サンディエゴからニューヨークへとやってきた。今、午前4時。長旅の疲れからホテルに着き、食事をするや眠りこんでしまい、目覚めとともにこれを書いている。悪天候のために出発が2時間遅れ、雨の中をケネディ空港に到着したのは、夕の7時過ぎであった。

 2ケ月の滞米生活を経たためか、ロスに初めて着いたときに比べて、ニューヨークの人混みにも恐怖を感じない。リムジンバスに乗り合わせた隣人に話かけたところ、こわばった返事が返ってきたので、お上りさんで緊張しているのだと分かり、おかしくなる。私たち東京の人混みに慣れているものには、ニューヨークなどまだまだすいている方で、むしろ人混みが懐かしいくらいであるのに、広いところにゆったりと暮らしている大方の米人にとっては、ニューヨークの雑踏は緊張を強いるのであろう。11階の自室の窓からは、ブロードウェイが暗闇の中からライトに照らされて浮かんでいる。このホテルはいささか汚いけれども、メトロポリタンオペラ劇場、ニューヨークフィルのー本拠エブリーフィッシャーホール、ジュリアード音楽院などを包含するリンカーンセンターに隣接する絶好のロケーションをもっている。昨夕からニューヨークフィル主催の『地平線1984』と言う現代音楽祭が10日間の日程で始められ、私はこのイベントに参加するために、はるばるとやって来た次第。

 それともう一つ、ニューヨーク来訪の大きな目的がある。そるは今翻訳しており、帰国後に出版したいと考えている『ジャズピアノーその歴史と発展』の著者ビリー・テイラーに会うこと。彼は単なるピアニストである以上に、学者であり、ジャズの啓蒙家であり、啓蒙運動の実践者である。私が彼に興味を持ったのは、彼がジャズモビールという、バスの屋根にミュージシャンをのせて、街頭で演奏したり、小、中、高ななどの学校で実演し、ジャズの話をしたりする教育活動に力を注いでいる点である。彼にうまくコンタクトがとれればよいのだが・・・

6月3日

■地平線1984音楽祭

 今日で五日目。毎日昼夜2回の演奏会とシンポジウム、間をぬってのミュージカルと町並み探検。とにかくスリルと発見に満ちている。ニューヨークフィルの本拠エブリーフィッシャーホールは、44本の柱を持つ白亜の建物だが、外観の壮大さに比しホール自体は、長方形のやや小ぶりのものだ。しかしこれは、ちょうどスピーカーボックスの中で聴くようなもので、音響は非常に良い。

音楽祭は『新ロマン主義の展望』と謳われているが、英国のロックミュージシャン、J.テンプルが『今のイギリスの状態は何だ、というように現れたパンクは衝撃的だった。それに比べるとニューロマンはネガティブな時期だった』と言っていたのを思い出し、状況認識においてクラシック音楽人は、多分ロックに遅れをとっているだろう。そしてこれは、アカデミズムや、文化助成金によって保護されていることから由来するだろう、と考えてしまう。2日目の夜は、作曲者の指揮するニューヨークフィルによるヘンツェの『トリスタン』とペンデレッキの『交響曲1

番』。お客の入りは八分ほど。着飾った人も多く、華やかな雰囲気が感じられる。隣の席に貧しい身なりの東洋人のおばさんが座っていて、話かけてきた。ベトナム人でパリで20年生活していたが、生活しにくくなったので、ニューヨークに来て家政婦をしているとのこと。音楽が大好きとのこと。私がこんな難しい音楽を聴くとは偉いねと誉めると、パリでもブーレーズをよく聴いたよと,ニッコリする。さて『トリスタン』は、テープを伴う音列作法による音楽。後期ロマン派風に息の長い旋律が多層に組み立てられている大曲。テープの音が汚くそれが残念ではあったが、静かな動作で丹念に指揮した作曲者は印象的。ヘンツェの指揮技術の巧みさには驚いた。これに反しペンデレッキは、あごひげを生やし、やや太り気味の大男。さすがにツボは心得ているが、跳び上がったり、唸ったりの荒い指揮。しかし音楽は、ピアニッシモからフォルテまで表現の幅が広く、さまざまな手法を駆使して多彩に構成されていた。

 問題なのは3日目。スチュアート・デンプスターの自作自演は、電気回路を使ってトロンボーンの単音を和声的に構築する方法により、トロンボーン1本のみで、神秘的で息の長い音楽を作り出した点で秀逸。しかし次のカリフォルニア大学教授エリクソンの『将軍の演説』は、まったく頂けない代物であった。将軍の服装をしたトロンボーン奏者が演壇を前に、切れ切れの音響を発するが上手く行かない。しかし、演壇の上におもちゃの米国旗が立てられ、奏者が軍帽をかぶるや否や朗々とした旋律がかなでられるという趣向。米国の威厳の回復を音楽的に象徴した意図は明瞭で聴衆は大喜びで拍手をしたが、こういう一回限りの道化を演じて喝采を得たところで、音楽的にはまったく意味がない。4日目はビリーに会う約束が取れたのを区切りに、音楽祭の鑑賞を省略して、ブロードウェイを下町に下り、『コーラスライン』『ドリームガールズ』とミュージカルを2本はしごした。『コーラスライン』の舞台は簡素そのもの。舞台の床の前列に白い1本の線が引いてあり、そのラインに沿って若い俳優たちが一列に並んでいるだけのもの。まったくお金はかかっていない。しかし音楽が始められるや、コーラスの迫力、踊りの見事さに魅了される。しかし劇の進むにつれて、踊りの上手な俳優はいささか声が貧弱だし、声の良い俳優は踊りがそれほどでもないということに気ずき、一口に『歌えて、踊れる』などと言っても、それは能力的に大変なことだと分かる。ボーカルのマイクオン、オッフの使い分け方、たった14、5人の小編成の効果的編曲法、小さく薄汚れた劇場など音楽ビジネスの巧みさ、厳しさを垣間みることができ、もっといろいろと見たくなって、夜は『コーラスライン』のかかっている劇場から1本上の通りにあるインペリアル劇場へと『ドリームガールズ』を見に出かけた

6月5日

■ビリー・テイラーとの会見

 今日は、午後1時に私の宿泊しているホテルのロビーで、ビリー・テイラーと落ち合うことが出来た。昼食を一緒にと誘ってくれ、近くのこぎれいなレストランで話をする。私が彼の著書を翻訳出版したい希望を述べるとすぐ了解してくれ、続いてチータムの話や、音楽の話や、彼がこの夏に日本を旅行する話などをする。彼は少なくとも65歳ぐらいの年齢のはずなのに、実に精悍で若々しい。ジュリア―ドでは以前はジャズのコースがあったのに、全校長のW.シューマンがジャズ嫌いのためにコースを無くしてしまったこと、エブリーフィッシャーホールは最高の設備を持っているのに、ジャズのためには、年にただ1回、クール・ジャズフェスティバルの時期に開放するだけであることなど、ジャズの受難を太い声でたんたんと話す。食後は、私の質問した著書の資料のために、メトロポリタン歌劇場に隣接する音楽図書館に案内してくれる。図書館でわれわれがレコードをさがしていると、一人の黒人の少年が近寄ってきて、『ビリー、あなたにこんなところで会えるなんて・・・』と話かけられる。ビリーは少年の頭をなでてやりながら、いろいろ話を聞いてやり、『気をつけて、元気でね!』と言って別れる。多分ビリーはジャズモビールの活動を通して、少年たちの憧れの対象なのだろう。彼の人柄の暖かさの一端を見て、とてもうれしく、ほのぼのとした気持ちになる。

■追記

 1985年日本に帰国した後、早速ビリーの著書の版権取得の交渉をはじめたが、すでに他の人が翻訳を始めていることが分かり、やむを得ず代わりにフランク・ティローの    『JAZZ a history』を翻訳して、1993年に音楽の友社から出版した。この書が多くの資料にもとずいてジャズの発生についての重要な仮説を提出しているからである。幸いタモリのTV番組などでも紹介され、版を5版重ねたが、出版社の都合により絶版になった。

 

フランク・ティロー 著
中嶋恒雄 訳
音楽之友社1933.4発行

1923年撮影のクレオール・ジャズバンドの珍しい写真。後列のトランペッターは若き日のルイ・アームストロングである。

ニューオリンズ・ジャズという名称のもととなったザ・オリジナル・ニューオリンズ・ジャズバンドの面々。       (1910年代の撮影)

 

inserted by FC2 system