サンディエゴ日記

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中嶋恒雄

●教育音楽中高版(音楽之友社)昭和60.7--61.6月号より転載改訂

 私は、昭和58(1983)年度文部省在外研究員として、昭和59年3月21日より昭和60年1月20日まで、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校にヴィジティング・スカラーの資格において8ヶ月在籍し、その後、ウィーン、ローマ、パリに短期間滞在した。本稿は、その期間における私的な記録の抜粋である。

クラブで演奏するG、セブラと彼のトリオ

自宅で演奏するギタリスト、アントニオ

8月22日

■パームスプリングスの友人宅を訪問

 今日は、4月にバヒア・ホテルで知り合ったチェコ系白人ベーシスト、ジョージ・セブラの招きを受けて、ちょうど2週間の休暇を得て来米している家内とともに、パームスプリングスの彼の自宅を訪問した。この地はサンディエゴの東北200キロほどの処に位置し、西部劇でおなじみの荒涼たる岩山を抜けると、棕櫚の木の植えられた瀟酒な街並をあらわす。もともとこの地は、ハリウッドのスター達の冬の避寒地として開発されたとかで、通りには、フランク・シナトラ通りやボブ・ホープ通りなどの名前が付けられている。

 セブラ夫人フミコの手料理の昼食後、ホテルで休息し、夜8時からセブラの出演するクラブのピアノ・トリオを聴きに行く。このトリオは、若い頃はフランク・シナトラの伴奏者として活躍したというピアニストがリーダーとして主宰するもので、もう60歳を過ぎた年齢には思えない渋い声を聞かせる。スタイルはスタンダードを4ビートで演奏するオーソドックスなジャズであるが、例えば、『サテンドール』を,休符をたくさん入れたアドリブにするなどの、独特な味わいを持っている。セブラは、ときどきこちらにウインクを送りながら、黙々とコードワークを支えている。客の入りは3、4組のカップルのみで、これで収入があるのだろうかと心配になる。話を聞くと、今はオフ・シーズンなので、ときどき不定期に演奏するだけなのだという。しかし、シーズン中に毎晩演奏しても、わずかに1000ドルほどの収入が上がるだけで、家計を賄うためには、部屋を貸したり、仕事のないときは街頭で絵を売ったりして暮らさなければならないという。私が東京芸大の学生であった頃、パリでは下宿屋のおばさんですら、コンセルバトワールを出ているというような話を聞いたことがあった。この話は、フランスという国の文化水準の高さを示す一例として私たちに受け止められていたのであったが、今日では、国立音楽院を卒業しても、下宿屋のおばさんしか就職口が見つからないと解釈すべきであったことに気づくのである。

 現在の日本の音楽家の状況は、急速に先進国の状況に近ずき、状況はさらに悪い。毎年毎年25000人に登る音大卒業生を受け入れる音楽機関はないからだ。米国においてもジャズ演奏家は、一部の花形をのぞけば、ホテル、クラブやバーなどが主な仕事場であるために、ホテルやクラブの景気の動向が直接に彼らの収入に影響する。ともあれ、セブラたちのような高い技術と音楽性をもったバンドが、わずか7、8人の酔客のために一晩中演奏しなければならないという現実に直面して、音楽家の社会的なあり方について改めて考えざるを得ない晩となった。

8月23日

■ナイトクラブの音楽家たち

 今日は、セブラの仕事仲間であるメキシコ系ギタリストのアントニオ、歌手のビビアンを加えて、セブラ宅でにぎやかに昼食をとった。私が日本から持参した作品「yuganaddha for 2Fl. & 2Pf.」(1982)のテープを聞かせたところ、アントニオはすっかり関心してくれて、テープを欲しいと言う。

8月25日

■野外劇場でのミュージカル

 家具つきア

9月7日

■スタン・ゲッツのコンサート

 午後

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