p 佐藤 慶次郎 Keijiro Satoh



弔辞
2009.5.24日朝、作曲家佐藤慶次郎氏はご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。
なお、5.29日1時2時に東京杉並堀ノ内斎場にて告別式が営まれ、
佐藤和子夫人の要請により、中嶋が弔辞を読ませていただきました。

 

 私より十歳年上で、とても怖いけれども思いやりと優しさに満ち満ちた、厳しい師匠の佐藤慶次郎先生、50年を越える長い年月をご指導くださり、本当にありがとう御座いました。先生に初めて出会った十八歳の昭和30年6月の夜、私の自宅においで下さった開襟シャツ姿の先生を、まざまざと脳裏に思い浮かべながら、先生にお別れのあいさつをさせて頂きます。
 先生が、4年の歳月を重ねて作曲されたあの永遠の名曲「ピアノのためのカリグラフィー」を、初めて発表されたのは1961年1月イタリア文化会館主催の音楽会においてでありました。その夜のプログラムでは、アメリカの優れた批評家であるヒューエル・タークイが先生に就いて次のように述べました。「さまざまな日本の作曲家が、私ヒューエル・タークイに、佐藤慶次郎は日本のもっとも才能に恵まれた作曲家だと教えてくれた。しかしこのことは、音楽会に通っている人たちが彼のことをほとんど知らないし、彼の作品もほとんど演奏されないことから考えるととても不思議なことだ。佐藤は、1つの作品を書いたら、2つの作品を破ってしまうほど、自分の作品を残すことがほとんど不可能な、完全主義者なのだ」と。
 それでも先生は、81年の歳月を、先生を理解するきわめて少数の人々に支持されながら、作曲家として、エレクトリック・モビールの作家として、充実した生涯を、愛妻、和子夫人とともに過ごされました。今日、ほとんどの人は、大学や役所や会社など、なんらかの組織に所属、あるいは組織を運営しないで生計を立てることは、まったく不可能なことです。けれども先生は、長い生涯を通して、ほとんど自宅から一歩も出ないままに、ご自分の成したいこと、成すべきことのみを成しながら、過ごすことができたことは、ひとえに、和子夫人の存在の賜物であったと思わざるを得ません。先生は1952年に、25歳で慶応義塾大学医学部を卒業されましたが、医学の道には進まれず、和子夫人のお母様の紹介によって、黒澤明監督と組んで映画音楽を作曲した、故早坂文雄氏に師事されて、作曲を始められました。
  そして1年後には、武満徹、湯浅譲二という、今日の日本を代表する作曲家になった若い作曲家たちのグループ実験工房に参加され、1954年に、「ピアノとオーケストラのためのレントとアレグロ」という作品によって、楽壇への登竜門とされる毎日音楽コンクールに入賞されました。けれども先生はすぐに、このような伝統的な音楽語法による作品からは離れて、当時の日本の音楽の世界では、全く理解されていなかった、点描的な無調の語法による「5つの短詩」を、実験工房の演奏会で発表されました。そしてこの路線をさらに進めて、ヒューエル・タークイに「モーツァルト、ブラームス、バルトークと並んで、ピアノの響きの、まったく新しい概念を創造した。とてつもない曲だ。私はこれに似た曲をまったく知らない」と云わしめた、あの「ピアノのためのカリグラフィー」の作曲に至ったのです。しかしこの曲の作曲の後は、「9つの弦楽器のためのカリグラフィー」など幾つかの作品や、ラジオやテレビドラマの伴奏音楽を書かれて、芸術祭大賞や文部大臣賞などを受賞されたものの、音楽という狭い概念からは解き放たれて、1967年のエレクトリック・ラーガという電子楽器の制作や、、1970年大阪万国博覧会三井館での、音響システムの制作など、音響ハードと、ソフトを分けることができない領域へと進んで行き、ついには、電気的磁石の応用によるエレクトリック・モビールの作品を、1974年3月に、日本橋の南画廊で発表されたのでありました。先生はこのカタログにおいて、「輿ノ赴クママニく作ラレタコレラノオブジェ達。ソノ造形上ノ良シ悪シ、新シイカ古イカ、ソシテソレラガ芸術作品ニ属スルヤ否ヤ、玩具、アルイハ室内アクセサリーノ類イニ属スルヤ、等々ノコトハ、私ノ興味ノカカワルトコロデハナイ。タダコレラノオブジェニオケル素子ノ単純ナ運動ガ、私ニトッテ面白ク、ソレゾレノ運動ヲ得ヨートシテ形作ラレタ姿ノママデ、ソレラノ各々ガ愛スベキモノニ感ジラレルノデ、他ノ人達ニモ見テモライタイトイウダケニコトデアル」と述べられました。これ以後、先生は音楽的な仕事を、世間に発表するというありかたでは、ほとんどなされず、アメリカの女流詩人エミリー・ディキンソンの研究を、70年代から80年代にかけて10年の間なさったり、また、80年代から90年代にかけては、私の差し上げたアタリのコンピューターや、ヤマハのシーケンサーと音楽ソフトを使って、「如何是」、これは何かという作品を沢山制作されたりなさいました。けれども先生は、これらの曲を世間に発表することはまったくありませんでした。私にはそれが、あまりにも勿体なく思えましたので、そのうちのただ1曲だけ、1993年、幕張の放送大学を会場にして国際音楽教育協会の部会が開催されたおりに、私がプロデュースした「音の実験コンサート」のプログラムの一つとして、発表して頂きました。さて、その後は先生の存在も、徐々に世間に知られるようになり、1992年、スペインでの万国博覧会日本館での仕事や、1999−2000の岐阜美術館主催「在るということの不思議ー佐藤慶次郎とまどみちお展」の出品をされたりなさいました。もちろん先生は、これらの出来事を一期一会のこととして、ひとつひとつ楽しみながら力を込めて仕事されましたけれども、元々が社会的な栄誉や、世間的な関わりより以上に、ご自分の得られた、人間が生きていることの真実の探求と、そのことの大乗的な伝達以外には、関心を持っておられないために、先生にとっては、毎日々々の坐禅修業や、禅仏教の研究、或いはメシアンに始まり、ビバルディ、ラフマニノフと続く音楽作品の研究の方に、より多くの興味を引かれていたように思います。そしてこのように静かで充実した日常の生活も、肺癌の病によって、5月24日朝、ついに終わる時がやってきました。先生は生前から、「生きるときは生きたら良い,死ぬるときは死んだら良い」という良寛和尚の教えを深く身につけておられましたから、病の痛みには苦しめられたとしても、心は、後に残される和子夫人が心配なだけで、静かで穏やかなものであったと思います。先生が現世を去られたことによって、私はむしろ私たち世に残されたものにとって、重い宿題が課せられたと感じております。いままで大事なことはみな先生が考えてくださり、私たちはその教えを聞き、実践すれば何とか世に生きていくことが出来たのですから。この意味からも、佐藤慶次郎という芸術家が,何をなそうとしたのかの解明は、これからみんなで始めなければならないと思います。
 先生の関心と表現は、ごく若い時には詩作に、そして音楽に、さらにはエレクトロニック・モビールの制作へと、いくつもの顔を表わしております。これらに共通して横たわっているものは、禅仏教の述べる悟り、あるいは見性成仏の事実の芸術的表現です。先生は、この見性の体験に,「ピアノのためのカリグラフィー」の作曲による4年間にわたる毎日の自己集中、三昧の結果として、33歳か34歳の頃に到達されたのです。そこでその事実を先生は、広く一般の人々に芸術表現によって伝えたいという悲願をもっておられたのだとおもいます。端的に言うならば、先生が耳によって得られた境涯を、目によって広く一般の人に伝えようとされたことが、音楽からエレクトロニック・モビールへの転進ということができます。もちろん先生がこのような意図をもって創作したなどということは、到底あり得ないことで、先生が先生の興味の赴くままに行為した結果として、こうなったよしか考えられないのですけれども、事実としては、このように解説することができるかと思うのです。そして先生は、仏教修業者が坐禅によって得られる悟りの境涯と、先生のように音楽創作の過程によって得られた自覚の境涯が、同じものかどうかを確かめようとされて、慶應医学部の先輩である岡田利次郎師のもとに参禅し、ディキンソンを研究されたのでした。
 さて、先生は10年ほど以前から「恒雄くん、君も悟れ」と言われて、私は先生から厳しい教えを受けました。しかし、凡才の身では到底その境涯に達することができず、先生はそれではその論理だけは教えようと、論理だけはようやく身に染みてきた此の頃です。先生は毎日膨大なノートを残しながら考えを進めておられ、その片鱗は個展のプログラム写真などによっても垣間みられるのですが、今後私たち残されたものの仕事は、先生が世に出されなかった思考の過程を明らかにして、作品の持つ意味を、多くの人々に理解して頂くことだとおもいます。これはちょうど、宗教の指導者が、初めは小さなサークルに伝えた教えが、だんだんに世に広まって行くように、佐藤慶次郎という一人の芸樹家の思想と表現は、私たち残されたものが受け継いで行くべきものと私は考えています。
 本日ここにお集まりくださった皆様は、生前の佐藤先生について、それぞれが切実な思いを持たれていることと思います。どうか先生が懐かしく思われるときはいつでも、「ピアノのためのカリグラフィー」を聞いたり、岐阜の美術館に行って、40本の壮大なモビール、「すすき」や愛らしい「お手玉」の動きに見入ってください。そこではきっと、先生のお姿を生前のままに、見ることが出来ると思います。それでは先生、どうぞ安らかにお眠り下ださい。さようなら。
平成21年5月21日

放送、記録映画、音楽等目録
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「座禅する慶次郎背像」

  画:佐藤和子

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